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此方は漫画家・吉原基貴のブログです。 HP・Twitterと併せてお楽しみいただければ幸いです。
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『サイバーブルー ~失われた子供たち~』は、原哲夫先生の作品『CYBERブルー』のリバイバル作品にあたる。

原哲夫先生には、今作のネームや原稿のチェック、作品の方向性や今後の展開、その他、効果的な演出や台詞の使い方、魅力的なキャラクターの造り方といった漫画そのものの技術まで、多忙極めるスケジュールの中、貴重な時間を割いて下さり、随処に至り様々なアドバイスをいただいている(どれもまだ巧く使いこなせておりません。頑張ります)。

原哲夫先生の代表作の一つである『北斗の拳』(累計発行部数一億部)にはじまる、その途轍もない経歴と、漫画家生活30年の間、常に頂点を走り続けてきた経験から成る言葉は、深みがあり、重みがあり、確信と説得力がある。
アシスタント経験の少なさと、師とよべる漫画家を持たない僕にとって、先生の言葉は、遭難し転覆し、海の藻屑へと消える直前だった眼前に舞い降りた羅針盤のように、暗闇に射し込んだひとすじの光となって、僕の支えになっている。

『サイバーブルー ~失われた子供たち~』は、原哲夫先生と繋がりをもつ契機をくれた、僕の人生にとって、とても意味深い作品である。

だが、先生は御記憶に無いかもしれないが、僕はこの作品に関わる以前、先生と御逢いしたことがある。

2005年冬、僕が25歳の頃、『週刊コミックバンチ』(2010年終刊)で漫画を掲載させていただく事が決まり、様々な理由から、一時期だけ、吉祥寺のとあるビルにある、現在の仕事場を利用させていただいていた事があった(この話は、今後別の機会に)。
この仕事場は、かつて『週刊コミックバンチ』で連載を抱える漫画家が各々のスペースで作業するという、とてもめずらしい環境で、現在は『月刊コミックゼノン』の関係者が同様に使用している。
北条司先生や、次原隆二先生という、僕が子供の頃、『週刊少年ジャンプ』で連載していた大御所の先生方は、依然この現場で執筆している。

僕が初めて、原哲夫先生と御逢いしたのは、その時だった。

先生のスペースは一際大きく、常に緊張感に包まれていた。
その奥にある、先生の仕事部屋へ行き、ご挨拶をさせていただいた。

先生は、原稿を描いている最中だった。机の上には、鉛筆とインクで真っ黒な原稿が置いてあった。

その原稿をじっくり見たかったが、それどころではなかった。先生の漫画の愛読者(大ファンです)であった僕は、緊張と高揚で頭が真っ白になっていた。
何を話したのかよくわからない(失礼極まりないです。本当に申し訳ありませんでした)まま部屋を出た。

先生に認めてもらえるよう、一生懸命漫画を描こうと思った。
出版業界には、年末進行という特殊な(恐ろしい)状況があり、それ以降、先生をお見かけする事は無かった。
何とか原稿を描き終え、新年を迎えた。
『週刊コミックバンチ』主催の新年会へ、原稿を手伝っていただいた方々と一緒に参加した。

そこで、再び原哲夫先生と出遭った。

僕は、『週刊コミックバンチ』掲載分の原稿を総て描き上げており、ひょっとしたら、もう遭える機会もないかもしれないと思って(原稿を抱えていない分、幾分か気が楽になり、以前よりは冷静でいられました)、担当の編集者さんに、
『原先生と握手させていただけないか』
と、話をきりだしてみた。

先生は快諾して下さった。僕の原稿を手伝ってくれたアシスタントさん達や、勝手に連れてきた友人にまで、丁寧に握手を交していただいた。皆、とても興奮し、喜んでいた。
最後に僕の番になった。先生は、手を前に差し出していた。

この手が、あの真っ黒な原稿を描いているのかと思った。
僕が今まで、何度も読んできた、あの漫画を描いてきた手なのかと思った。
僕は、手の平の汗を拭き、原先生の前に立とうとした。

そのとき、僕は突然、先生に頭を下げ、

『ありがとうございました。』

と、御礼を言った。

先生は、少し不思議な顔をして、僕に会釈を交わし、その場をあとにした。


あの時、何故、原哲夫先生と握手を交わさなかったのか、僕にはまだわからない。
青春の期にありがちな、とがった自尊心によるものなのか、卑屈な感情の混じった遠慮なのか、そのどちらでもないような気がする。
ただ、あの時、原先生の手を握っていたら、僕は今こうやって、先生からいただいた様々なアドバイスを真正面から受け止め、頭を掻き毟り悩み、考え、渾身の想いで描いた原稿を、目をそらさずに、まっすぐに先生に見てもらおう、先生と、僕と同じく先生の漫画が好きな読者の皆さんに、愉しんでもらえるよう、認めてもらえるようになろう、と、そういう気持ちになる事は無かっただろうと思う。

描いた原稿の枚数だけ、先生が遠く感じる。何故この程度しか描けないのかと自責する。
それでも、いつか、胸を張って、あの手を握ることができるよう、漫画を描いていこうと思う。

僕にとって、原哲夫先生の手は、漫画と描くという、果てしない旅路の、一つの終着駅のようなものなのかもしれない。

僕の記憶の中には、いつまでも、あの時、先生の机に置いてあった、真っ黒な原稿が残っている。

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2011年11月19日『サイバーブルー ~失われた子供たち~』単行本第二巻、発売いたしました。

僕が、この作品の作画を正式にお引き受けさせていただく事になったのは、2010年初夏の頃でした。

当時、まとまった仕事も無く、この先漫画家として生きてゆく事に、焦燥と限界などを感じていました。
2003年、『週刊モーニング』で連載していた『U-31』という作品以来、一度も連載の機会も無く、単発の仕事で食い繋ぐ毎日でした。
そんな折、かつて一度一緒にお仕事させていただいた、『週刊コミックバンチ』(2011年現在、終刊)の編集者さんから、連絡がありました。

『この度、新創刊の月刊誌を立ち上げる事になった。その雑誌で、『CYBERブルー』を描いてみないか』

初めは、何の事を言っているのか良くわかりませんでした。
『CYBERブルー』の名に、聞き覚えはありました。
『CYBERブルー』は漫画家、『原哲夫』先生がかつて連載していた作品です。
映画やアニメ、ゲームのリメイクやスピンオフのような漫画は、幾つか聴いた事があるけれど、漫画のリメイクの漫画というのは、未だ珍しいものでした。
この作品は、一度完結されていて、もし引き受けることになるとしたら、原作者にあたる原哲夫先生のファンは途轍もなく多い。
僕が手掛ける事で、前作のファンや、原哲夫先生の作品が好きな方へ、何か失礼な事になってしまったりはしないだろうか。
そんな不安もありましたが、僕の中にはもう一つの感情がありました。

僕は、原哲夫先生のファンでした。ほぼ総ての作品を愛読し、その物語のスケールやキャラクターの生き様、圧倒的な描写に憧れ、時にお手本にして、漫画家になりました。
僕にとって、原哲夫先生は、誌面を通して眺めるだけの、遥か遠くの存在でした。
漫画家になり、周りの人々に迷惑ばかりをかけて、辛うじて生活している自分には、未だ現役で、第一線で活躍するその存在は、僕の中で更に大きく、強く、どうやっても手の届かない程に輝いていました。

そんな原先生の作品に携わる事の出来る喜びと、自分の、漫画家としての生きる道筋の先に、細く僅かでも光が射したようで、僕の胸は躍っていました。

原先生の作品に関わらせていただくことで、今一度、漫画の事を勉強しよう。
僕を通して、新しいモノを提供することで、少しでも、読者の皆様の新しい愉しみと、原先生の力になろう。

僕は、『新サイバーブルー(仮)』の原作原稿を受け取りました。


それから瞬く間に時間は過ぎ、気がつけば『サイバーブルー ~失われた子供たち~』は連載して一年と少しが経ちました。
この作品を読んでくださり、愉しんでいただいている皆様。
厳しくも優しく、随処に本当に的確なアドバイスを下さる原哲夫先生。
不慣れで不適格な指示にも、クオリティの高い絵で応えてくれるスタッフの皆様。
この作品へ関わる人達に感謝の意と、これからも努力や精進を怠らず、より一層面白い漫画になるよう頑張る事が、皆様への恩返しになると思っています。

此れからも、宜しくお願いいたします。





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1980/04/28
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