此方は漫画家・吉原基貴のブログです。
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先日、母が白内障の手術をした。
白内障とは、『眼』の疾患の一つで、水晶体が灰白色や茶褐色ににごり、物がかすんだりぼやけて見えたりするようになるという症状を伴うらしい。(Wikipediaより引用)
母が白内障になった主な原因は、本人から聴かされていないのでわからないが、白内障とは、加齢により発症する確率が高くなるものらしい。
母は手術前、とても神経質になっていたように感じた。手術に失敗すれば、失明の恐れもあると洩らしていた。
誰でも、視力を失うのは怖いと思う。暗闇や暗黒が怖いのではなく、視えていたものが、視えなくなるのが怖いのだ。
人間は、視覚で物体の形状や構造、距離感を認識することが多い。対象が植物や動物など、いわゆる『生物』の場合は、なおさらその機能は重要になる。果てには、自己に対して、危機を及ぼす存在なのか、幸福を齎す有意義な存在なのか、その敵意や好意といった、眼に映らないものまで見極める。
嗅覚や聴覚などで、それらを確認できる距離感は、危機を避ける事の困難な間合いになる。特に触覚などは、対象に直接接触しなくてはならない。もし対象が、猛毒や牙といった武器で襲ってきたら、対処できる選択肢が限りなく少ない。
そういった重要な器官が、突然機能しなくなることは恐怖だ(まあ、だからこそ手術するのだが)。
母の狼狽も焦燥も充分に理解したうえで、だが僕にとっては、それどころの話ではなかった。
眼が視えなくなったら、今までのように漫画を描くことが出来ない。
白内障は、視え『にくい』。手術に失敗したら、視え『ない』。視えにくいのはまだいい。視力の悪い漫画家は山ほどいる。だが、視力の無い漫画家というのは、知る限りでは聴いたことが無い。加えて、僕のような、認知度も才能も乏しい(これから頑張ります)漫画家が視力を失ったらどうなるか。
それはもう、存在そのものの価値が無くなるに等しい。底に巨大な穴の開いた鍋のようなものだ。
だがこれは、僕の眼が視えていれば済むという話ではない。
もし、読者のみなさんの眼が視えなくなってしまったらどうか。
その作者の個性となる絵がわからない。
漫画の登場人物達(キャラクター)の、細かな表情や姿勢を感じ取ることが出来ない。
キャラクターの心理や感情を表現するフキダシやモノローグが読めないし、その判別が出来ない。
コマの大小や構図によるドラマチックな演出が伝わらない。
集中線や効果音などによる迫力も感じない。
この中で唯一、辛うじて読者側が感じ取れる箇所があるとしたら、朗読が可能なフキダシやモノローグ、ナレーションなどの台詞の部分だろう。しかしそれも、小説の朗読のようにはいかない。
漫画は、小説と違い、文字による情景描写が殆ど無い。
例えば小説で、『その病院は、この片田舎には不釣合いなほど巨大で、病院から本来感じるべきである、安心感や衛生的な雰囲気とは云い難く、何か不吉な事態を連想させる、異様な建造物に見えた。』という文章による描写がある。漫画では、それらの総ての情報を一つのコマで、『絵』として視覚的に描写する手法をとる。
だから、たとえ漫画の台詞のみを巧みに抽出し、それを朗読したとしても、それを聴かされた側には、一体何時、何処で、何が起きているのか、適確にイメージすることが出来ない。それでは、漫画という表現を、堪能したとは言い難い。
漫画というのは、あらためて非常に視覚的な表現なのだと気付かされる。
漫画の中の登場人物の、眼の描写や視線というのも、とても大切な情報と表現技法だ。
時には、眼のズームアップの描写一つで、そのキャラクターの心理や決意を想像させることが出来る。
眼というのは、漫画に拘る人達にとって、最も重要な器官といえる(次が『手』かな)。
なので、母から手術に関するメールが届いたとき、僕は、ひょっとしたら、当事者の母よりもうろたえていた。
何故か自分の眼がむず痒くなり、眼球が無くなる様な感覚に陥り、しきりに眼を思い切り瞑ったりした。
視力が悪いのにもかかわらず、永いことかけていない眼鏡を探したりした。
そういえば、この間、父と逢った時、父が緑内障だという事を聴かされ、落ち込んでいたのを思い出した。
発覚の原因は兄で、兄が会社の健康診断を受けたところ、緑内障の疑いがあると診断され、緑内障は遺伝的な要素もあるといわれているから、親にも診断を薦めて調べてみてはどうかという事で、その通り父も発覚したという経緯らしい。
ということは、僕にも緑内障の可能性があるのではないかと気付いた(緑内障についてはまた別の機会に)。
それからというもの、自分の眼が気になって仕方ない。
因みに、母の手術は、無事成功した。今度様子を見舞いに行こう。
白内障とは、『眼』の疾患の一つで、水晶体が灰白色や茶褐色ににごり、物がかすんだりぼやけて見えたりするようになるという症状を伴うらしい。(Wikipediaより引用)
母が白内障になった主な原因は、本人から聴かされていないのでわからないが、白内障とは、加齢により発症する確率が高くなるものらしい。
母は手術前、とても神経質になっていたように感じた。手術に失敗すれば、失明の恐れもあると洩らしていた。
誰でも、視力を失うのは怖いと思う。暗闇や暗黒が怖いのではなく、視えていたものが、視えなくなるのが怖いのだ。
人間は、視覚で物体の形状や構造、距離感を認識することが多い。対象が植物や動物など、いわゆる『生物』の場合は、なおさらその機能は重要になる。果てには、自己に対して、危機を及ぼす存在なのか、幸福を齎す有意義な存在なのか、その敵意や好意といった、眼に映らないものまで見極める。
嗅覚や聴覚などで、それらを確認できる距離感は、危機を避ける事の困難な間合いになる。特に触覚などは、対象に直接接触しなくてはならない。もし対象が、猛毒や牙といった武器で襲ってきたら、対処できる選択肢が限りなく少ない。
そういった重要な器官が、突然機能しなくなることは恐怖だ(まあ、だからこそ手術するのだが)。
母の狼狽も焦燥も充分に理解したうえで、だが僕にとっては、それどころの話ではなかった。
眼が視えなくなったら、今までのように漫画を描くことが出来ない。
白内障は、視え『にくい』。手術に失敗したら、視え『ない』。視えにくいのはまだいい。視力の悪い漫画家は山ほどいる。だが、視力の無い漫画家というのは、知る限りでは聴いたことが無い。加えて、僕のような、認知度も才能も乏しい(これから頑張ります)漫画家が視力を失ったらどうなるか。
それはもう、存在そのものの価値が無くなるに等しい。底に巨大な穴の開いた鍋のようなものだ。
だがこれは、僕の眼が視えていれば済むという話ではない。
もし、読者のみなさんの眼が視えなくなってしまったらどうか。
その作者の個性となる絵がわからない。
漫画の登場人物達(キャラクター)の、細かな表情や姿勢を感じ取ることが出来ない。
キャラクターの心理や感情を表現するフキダシやモノローグが読めないし、その判別が出来ない。
コマの大小や構図によるドラマチックな演出が伝わらない。
集中線や効果音などによる迫力も感じない。
この中で唯一、辛うじて読者側が感じ取れる箇所があるとしたら、朗読が可能なフキダシやモノローグ、ナレーションなどの台詞の部分だろう。しかしそれも、小説の朗読のようにはいかない。
漫画は、小説と違い、文字による情景描写が殆ど無い。
例えば小説で、『その病院は、この片田舎には不釣合いなほど巨大で、病院から本来感じるべきである、安心感や衛生的な雰囲気とは云い難く、何か不吉な事態を連想させる、異様な建造物に見えた。』という文章による描写がある。漫画では、それらの総ての情報を一つのコマで、『絵』として視覚的に描写する手法をとる。
だから、たとえ漫画の台詞のみを巧みに抽出し、それを朗読したとしても、それを聴かされた側には、一体何時、何処で、何が起きているのか、適確にイメージすることが出来ない。それでは、漫画という表現を、堪能したとは言い難い。
漫画というのは、あらためて非常に視覚的な表現なのだと気付かされる。
漫画の中の登場人物の、眼の描写や視線というのも、とても大切な情報と表現技法だ。
時には、眼のズームアップの描写一つで、そのキャラクターの心理や決意を想像させることが出来る。
眼というのは、漫画に拘る人達にとって、最も重要な器官といえる(次が『手』かな)。
なので、母から手術に関するメールが届いたとき、僕は、ひょっとしたら、当事者の母よりもうろたえていた。
何故か自分の眼がむず痒くなり、眼球が無くなる様な感覚に陥り、しきりに眼を思い切り瞑ったりした。
視力が悪いのにもかかわらず、永いことかけていない眼鏡を探したりした。
そういえば、この間、父と逢った時、父が緑内障だという事を聴かされ、落ち込んでいたのを思い出した。
発覚の原因は兄で、兄が会社の健康診断を受けたところ、緑内障の疑いがあると診断され、緑内障は遺伝的な要素もあるといわれているから、親にも診断を薦めて調べてみてはどうかという事で、その通り父も発覚したという経緯らしい。
ということは、僕にも緑内障の可能性があるのではないかと気付いた(緑内障についてはまた別の機会に)。
それからというもの、自分の眼が気になって仕方ない。
因みに、母の手術は、無事成功した。今度様子を見舞いに行こう。
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