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此方は漫画家・吉原基貴のブログです。 HP・Twitterと併せてお楽しみいただければ幸いです。
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K
高校生だった頃、友人の家へ遊びに行ったことがあった。
こう書くと特別めずらしい事態でもないように思えるが、少なくとも自分にとってはとてもめずらしい体験をした。
その友人(K)ともう一人の友人(T)を含めた三人でゲームに没頭していた。騒いでいたのもあり、なにやら空腹になってきた。気がついたら夕飯時だった。
『腹減ったな。そろそろ帰るか。』などと思っていたら、なんだか良いにおいがしてきた。
友人(K)の両親がなにやら食事を用意してくれていた。Kは母親に手招きされて、料理を運んできた。
うな重だった。
突然のもてなしに僕とTは顔を合わせ『マジかよ』といいながらとても恐縮した気分になってしまった。
Kは、とても気恥ずかしそうな、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
なんだかいたたまれなくなって、もう帰ろうかと思ったりもしたが、そんな高価な(主観です)飯をいただいた手前すんなりと帰るのも気が引けて、結局9時半近くまでお邪魔して帰ることになった。
うな重の御礼を言わなければと思ったが、もうご両親も寝てるだろうと思い直し、小さな声で『ご馳走様したぁ。お邪魔しましたぁ』と呟き玄関で靴を履いていたら、Kのご両親が影からあらわれた。ご両親は何度か頭を下げて言った。
『今日はありがとうございました。お楽しみいただけましたでしょうか』
一瞬、なんのことをいっているのかわからなかった。こちらも何度も頭を下げて、自転車でTと帰宅した。
そのときのKの顔は見てないし憶えていない。


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今年も雪が降った。
積雪とまではいかないが、冬という季節を味わわせてくれた。
しかしこの程度の雪では、雪だるまは到底作れまい。
一見なにやら奇妙な言い回しに聴こえるかもしれないが、僕にとって、これは安堵すべき事態なのだ。

雪だるまには、穏やかならぬ因縁がある。

5歳の頃、父の仕事の都合で、僕ら家族は、アメリカ合衆国はイリノイ州の郊外に棲んでいた。
車で一時間ほどで大都市シカゴが見える。
当時の記憶といえば、名画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』が大ヒットを飛ばしており、カーラジオからはマイケル・ジャクソンの『BAD』や、スティービー・ワンダーの軽快で心根に染みるサウンドが流れていた。
まだインターネットなどの先端技術は浸透しておらず、幼稚園児の時分ではとてもじゃあないが全米や世界の事情など把握も認識も出来ていなかった。
そんな僕の周囲では、『キッドナップ(子供攫い)』が多発していた。
バブル経済により、貧富の差が顕著に表れ、窃盗や強盗・誘拐や身代金などの事件が後を絶たない時代に突入していた。
家族は恐怖し、子供を独りで外出させてはいけないという地域の決まりごとが出来ていた。
僕の住む家には走り回れる程度の庭があったが、両親が揃い見守る時の他は、思い切り遊ぶことは出来なかった。父は忙しく、滅多に顔を見ることはなかった。

ある冬の日、目が覚めて窓から外を見たら、雪が積もっていた。
僕と兄と弟は、その一面の白い景色に心が躍った。気持ちをおさえる事が出来なかった。
喚く僕らを見た母は観念し、父が留守なのにかかわらず、僕らは庭に出る事を許された。
張り詰めた冬の朝の空気と雪のしっとりとした鋭い感触に、いつにも増して開放的な気分になった。
一頻りはしゃぎきって、僕らは雪だるまを作ることに決めた。

アメリカの雪だるまは、日本の二段式の雪だるまと違い、頭部・胴部・腰(脚)部の三段式になっている。
僕ら三人兄弟は、それぞれに部位を担当して、雪だるまを創作していった。胴部の両端に木の枝を挿し、頭部に木炭を二つ。中央に人参をつけて、雪だるまは完成した。
何かを成し遂げた達成感と、僕らの等身ほどあるその姿に、気分は更に高揚し、雪だるまの周囲をかけまわったり話しかけたりした。童話のように、雪だるまは今にもう動いてくれそうに感じていた。
ところが、雪だるまは何の返事もなかった。ピクリともしなかった。
そのうち、何故か僕は腹が立ってきて、雪だるまを蹴った。硬く丸めた雪が削れる事で、幾分気分が晴れたのか、僕は何度も雪だるまを蹴った。
そのうち、日が暮れかけ、僕らは家に入ることにした。

夜になると父が帰ってきた、庭先にある歪な雪だるまを目にして、妙に思ったのか、僕らに理由を問いただした。
事情を理解するなり、父は言った。
『大変な事をしてしまったな』
僕は、何の事をい言っているのかわからなかった。
父の顔は真剣だった。父は言葉を続けた。
『雪だるまは、傷をつけた人を呪うんだ。手で殴ったら、手を呪ってそいつを同じ目に遭わせる。お前は、何度も足で蹴ったな。雪だるまの呪いで、脚が腐っておちるぞ』
僕は全身が震えた。腐るという言葉の響きが、子供心に恐怖を増大させた。後悔と恐怖で涙が出てきた。
僕はどうすればいいのか、泣き喚きながら父に訊いた。
『いっしょうけんめい、あやまりなさい』
と、父は教えてくれた。
窓から、雪だるまが見えた。僕は泣きながら、雪だるまへ向かって、ごめんなさい、もうしませんと謝り続けた。
徐々に溶け、形状を崩してゆく雪だるまが、腐りおちていく時分の脚を連想させた。その恐怖に心底怯え、僕は一晩中窓から謝り続けた。

気がつくと、僕はベッドの中で、はっとして脚を弄り確かめた。脚は無事ついていた。
父や母に言うと、きっと一生懸命謝ったから、許してくれたのだと、笑いながら応えてくれた。
窓の外には、跡形も無い雪だるまの残骸が転がっていた。


あの時以来、僕は雪だるまを創るのも、観ることも苦手になったのだった。




2012年1月2日です。
元旦の更新はかないませんでしたが、そこは御愛嬌と云う事で。

昨年末は非常に慌しく、なかなかブログの更新もままなりませんでしたが(Twitterではちょこちょこ呟いていました)、今年は頑張って色々な事を発信出来る様に頑張ります!
去年のことは去年まで。また一日一日と経験と勉強を重ね、日々精進していきたいと思います。

また、本人への質問・リクエスト等ございましたら、ご気軽に返信コメント・メール等で御申しつけください!
時間と都合の許す限り、お応えさせていただけたらと思います。

それでは、2012年も宜しくお願い致します!

吉原基貴
先日、母が白内障の手術をした。
白内障とは、『眼』の疾患の一つで、水晶体が灰白色や茶褐色ににごり、物がかすんだりぼやけて見えたりするようになるという症状を伴うらしい。(Wikipediaより引用)
母が白内障になった主な原因は、本人から聴かされていないのでわからないが、白内障とは、加齢により発症する確率が高くなるものらしい。

母は手術前、とても神経質になっていたように感じた。手術に失敗すれば、失明の恐れもあると洩らしていた。
誰でも、視力を失うのは怖いと思う。暗闇や暗黒が怖いのではなく、視えていたものが、視えなくなるのが怖いのだ。
人間は、視覚で物体の形状や構造、距離感を認識することが多い。対象が植物や動物など、いわゆる『生物』の場合は、なおさらその機能は重要になる。果てには、自己に対して、危機を及ぼす存在なのか、幸福を齎す有意義な存在なのか、その敵意や好意といった、眼に映らないものまで見極める。
嗅覚や聴覚などで、それらを確認できる距離感は、危機を避ける事の困難な間合いになる。特に触覚などは、対象に直接接触しなくてはならない。もし対象が、猛毒や牙といった武器で襲ってきたら、対処できる選択肢が限りなく少ない。
そういった重要な器官が、突然機能しなくなることは恐怖だ(まあ、だからこそ手術するのだが)。
母の狼狽も焦燥も充分に理解したうえで、だが僕にとっては、それどころの話ではなかった。
眼が視えなくなったら、今までのように漫画を描くことが出来ない。

白内障は、視え『にくい』。手術に失敗したら、視え『ない』。視えにくいのはまだいい。視力の悪い漫画家は山ほどいる。だが、視力の無い漫画家というのは、知る限りでは聴いたことが無い。加えて、僕のような、認知度も才能も乏しい(これから頑張ります)漫画家が視力を失ったらどうなるか。
それはもう、存在そのものの価値が無くなるに等しい。底に巨大な穴の開いた鍋のようなものだ。

だがこれは、僕の眼が視えていれば済むという話ではない。
もし、読者のみなさんの眼が視えなくなってしまったらどうか。

その作者の個性となる絵がわからない。
漫画の登場人物達(キャラクター)の、細かな表情や姿勢を感じ取ることが出来ない。
キャラクターの心理や感情を表現するフキダシやモノローグが読めないし、その判別が出来ない。
コマの大小や構図によるドラマチックな演出が伝わらない。
集中線や効果音などによる迫力も感じない。

この中で唯一、辛うじて読者側が感じ取れる箇所があるとしたら、朗読が可能なフキダシやモノローグ、ナレーションなどの台詞の部分だろう。しかしそれも、小説の朗読のようにはいかない。
漫画は、小説と違い、文字による情景描写が殆ど無い。
例えば小説で、『その病院は、この片田舎には不釣合いなほど巨大で、病院から本来感じるべきである、安心感や衛生的な雰囲気とは云い難く、何か不吉な事態を連想させる、異様な建造物に見えた。』という文章による描写がある。漫画では、それらの総ての情報を一つのコマで、『絵』として視覚的に描写する手法をとる。
だから、たとえ漫画の台詞のみを巧みに抽出し、それを朗読したとしても、それを聴かされた側には、一体何時、何処で、何が起きているのか、適確にイメージすることが出来ない。それでは、漫画という表現を、堪能したとは言い難い。
漫画というのは、あらためて非常に視覚的な表現なのだと気付かされる。

漫画の中の登場人物の、眼の描写や視線というのも、とても大切な情報と表現技法だ。
時には、眼のズームアップの描写一つで、そのキャラクターの心理や決意を想像させることが出来る。

眼というのは、漫画に拘る人達にとって、最も重要な器官といえる(次が『手』かな)。

なので、母から手術に関するメールが届いたとき、僕は、ひょっとしたら、当事者の母よりもうろたえていた。
何故か自分の眼がむず痒くなり、眼球が無くなる様な感覚に陥り、しきりに眼を思い切り瞑ったりした。
視力が悪いのにもかかわらず、永いことかけていない眼鏡を探したりした。

そういえば、この間、父と逢った時、父が緑内障だという事を聴かされ、落ち込んでいたのを思い出した。
発覚の原因は兄で、兄が会社の健康診断を受けたところ、緑内障の疑いがあると診断され、緑内障は遺伝的な要素もあるといわれているから、親にも診断を薦めて調べてみてはどうかという事で、その通り父も発覚したという経緯らしい。
ということは、僕にも緑内障の可能性があるのではないかと気付いた(緑内障についてはまた別の機会に)。

それからというもの、自分の眼が気になって仕方ない。

因みに、母の手術は、無事成功した。今度様子を見舞いに行こう。




初めまして、漫画家の『吉原基貴』と申します。
この度、月刊コミックゼノン連載中『サイバーブルー ~失われた子供たち~』の単行本第二巻発売を機に、ブログを開設する運びとなりました。

コレを機会に、現在進行中の作品への想いや最新情報、過去の作品への感想・情報・裏話、日々の感情など、様々な物事をお知らせして行ければと思います。

どうぞこれから宜しくお願いいたします。

吉原基貴
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