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此方は漫画家・吉原基貴のブログです。 HP・Twitterと併せてお楽しみいただければ幸いです。
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『STREET FIGHTER Ⅱ』という格闘ゲームを初めて観たのは、小学校五年生の頃だった。

当時、僕は水泳教室に通っており、週二回、学校が終わった後、一度家に帰り、水泳教室のある藤ヶ丘駅前のスイミングスクールへ歩いて向かった。
自宅とスイミングスクールは、学校を挟み丁度正反対の位置にあり、思い返しても、よくもまああんな距離を苦も無く歩き通い続けたなと思う。そんなことは、この話とまったく関係無いが。
自宅からの道の途中に、小さなおもちゃ屋さんがあった。
『おもちゃ屋どんきぃ』という名前だったと記憶している。

スイミングスクールでクタクタになった帰りに、僕は友人ときまって『おもちゃ屋どんきぃ』へ寄った。
小学生の小遣いではとても手の届かない高価なラジコンやプラモデルが並ぶショーケースを眺め、徒歩で通うことにより、自宅までのバス代を浮かせて手にした小銭で(母さん、何かすいませんでした)、マグネットや独楽やシールを買った。与えている小遣いの範疇を超えた玩具の量を見て、母は何となく気付いていたんだろうなあ。

ある日、『おもちゃ屋どんきぃ』の前に、中学生や高校生の人だかりが出来ていた。
何事かと人ごみの隙間を掻い潜り、背伸びしてその中心を覗いてみると、店頭にゲームセンターのゲーム筐体が設置されていた。
当時ゲームセンターと云えば、ヤンキーといわれる不良高校生の溜まり場で、とても怖い場所だから近づいてはいけないと、両親からも友人との間でも囁かれていた。
僕が、ゲームセンターのゲーム筐体を見たのは、その時が初めてだった。
興奮して食入るように色々なゲームの画面を見ていると、その中に一際音量の大きな、ギャラリーの多いゲームがあった。
後に、ゲーム史に名を轟かす、対戦格闘ゲームの金字塔。

それが僕と、『STREET FIGHTER Ⅱ』との出会いだった。

それまでゲーム画面で見たことの無い大きさのマッチョなキャラクター達が、画面狭しと大喧嘩をしている様子は、僕の感性を途轍もなく刺激した。
攻撃をヒットさせた衝撃が、まるで本当に痛みを憶えるほど細かく演出されていた。息遣いや、体重を感じるほど、動きが生々しく説得力があった。
今まで熱中していたゲーム達が、まるで子供だましのように思えてしまうほど衝撃を憶えた。
興奮して、何時までもゲーム画面を見ていた。華麗に動くキャラクターを見ては、感嘆し、『俺もこんな風に、カッコよく動かしてやる』と思った。
僕はあっという間に、『STREET FIGHTER Ⅱ』の虜になってしまった。

だが当時、『STREET FIGHTER Ⅱ』(以下ストⅡ)は、ゲームセンターでしか遊ぶ事が出来なかった。
『おもちゃ屋どんきぃ』では、中学生や高校生がはばを利かせ、小学生の僕達が遊べる状況ではなかった。
僕はずうっと指を咥えて、『ストⅡ』をプレイする日を夢見た。

社会現象になるほど国民的人気のゲームになった『ストⅡ』は、僕と出会ってから約一年後、家庭用ゲーム機へ移植され、ついに僕のところへやって来た。
この日が来るのを心待ちにしていた僕は、ゲーム機のコントローラーのボタンが磨り減るほど『ストⅡ』に夢中になった。毎日のように、友人や兄弟と対戦して遊んだ。
僕の31年の人生の中で、最もゲームに熱中していた時代だった。

そのうち、いつも同じ友人や兄弟を相手に対戦することに満足出来なくなった僕は、とうとう、不良の巣窟と名高い(酷い云われようだが、当時僕の周りでは本当にそういったレッテルがはられていた。お気に触る方がいらっしゃったらすいません。)ゲームセンターに足を運んだ。
怖い目に遭うことよりも、『ストⅡ』で対戦したい想いが勝ったのだった。
それ以降、僕はゲームセンターへ頻繁に通うことになる。

『ストⅡ』の続編が発表され、稼動される度、一生懸命巧くなろうと、夢中になって遊んだ。
ゲームとして遊ぶだけでは飽き足らず、その圧倒的な迫力と、精密な描写によりt創りあげられたキャラクター達の公式イラストを何度も見ては、真似して描いた。落書き張漫画も描いたりした。
それまで『ドラえもん』や、『ドラゴンクエスト』のような、ディフォルメを重視した雰囲気を手本にしていた僕の画風は、この時から『ストⅡ』のようなリアリティとディフォルメの融合を模範とし、理想とするようになり、現在に至るまで多大な影響を受けている。
『ストⅡ』は、僕にとって漫画家としての原点ともいえる。

僕にとって、『ストⅡ』は、とても特別なゲームだ。
僕が、その『ストⅡ』シリーズの、プロデューサーや開発スタッフが拘ったという意味での最終後継作品にあたる『STREET FIGHTER Ⅲ 3rd STRIKE』を未だに遊び続けているのは、単にこのゲームの面白さに惹かれているだけでは無い。(最新の続編にあたる『STREET FIGHTER Ⅳ』は、海外の会社が製作しています)

僕にとって、ゲームの面白さ、奥深さ、より上達したい、強くなりたいという向上心、勝利の喜び、上達の達成感、敗北の悔しさ、諦めない根性、50円の価値、負かした相手のこちらをみる恨めしそうな顔、学校の成績が下がるほどのめり込んだせいで、進学すら危ぶまれた時の両親の顔、対戦により深まった友情、隣に女の子を待たせてプレイした時の優越感(その後フられました)、その他も、今までのどのゲームよりも、色々な事を教えてくれた、少年時代の指針そのものだ。

青春と呼ぶに相応しい、あらゆるものを感じながら、僕は『3rd STRIKE』の筐体に、コインを入れる。

そして、まあ、そんな事を色々と考えてたりするから、負けるんだろうな、きっと。




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先日、母が白内障の手術をした。
白内障とは、『眼』の疾患の一つで、水晶体が灰白色や茶褐色ににごり、物がかすんだりぼやけて見えたりするようになるという症状を伴うらしい。(Wikipediaより引用)
母が白内障になった主な原因は、本人から聴かされていないのでわからないが、白内障とは、加齢により発症する確率が高くなるものらしい。

母は手術前、とても神経質になっていたように感じた。手術に失敗すれば、失明の恐れもあると洩らしていた。
誰でも、視力を失うのは怖いと思う。暗闇や暗黒が怖いのではなく、視えていたものが、視えなくなるのが怖いのだ。
人間は、視覚で物体の形状や構造、距離感を認識することが多い。対象が植物や動物など、いわゆる『生物』の場合は、なおさらその機能は重要になる。果てには、自己に対して、危機を及ぼす存在なのか、幸福を齎す有意義な存在なのか、その敵意や好意といった、眼に映らないものまで見極める。
嗅覚や聴覚などで、それらを確認できる距離感は、危機を避ける事の困難な間合いになる。特に触覚などは、対象に直接接触しなくてはならない。もし対象が、猛毒や牙といった武器で襲ってきたら、対処できる選択肢が限りなく少ない。
そういった重要な器官が、突然機能しなくなることは恐怖だ(まあ、だからこそ手術するのだが)。
母の狼狽も焦燥も充分に理解したうえで、だが僕にとっては、それどころの話ではなかった。
眼が視えなくなったら、今までのように漫画を描くことが出来ない。

白内障は、視え『にくい』。手術に失敗したら、視え『ない』。視えにくいのはまだいい。視力の悪い漫画家は山ほどいる。だが、視力の無い漫画家というのは、知る限りでは聴いたことが無い。加えて、僕のような、認知度も才能も乏しい(これから頑張ります)漫画家が視力を失ったらどうなるか。
それはもう、存在そのものの価値が無くなるに等しい。底に巨大な穴の開いた鍋のようなものだ。

だがこれは、僕の眼が視えていれば済むという話ではない。
もし、読者のみなさんの眼が視えなくなってしまったらどうか。

その作者の個性となる絵がわからない。
漫画の登場人物達(キャラクター)の、細かな表情や姿勢を感じ取ることが出来ない。
キャラクターの心理や感情を表現するフキダシやモノローグが読めないし、その判別が出来ない。
コマの大小や構図によるドラマチックな演出が伝わらない。
集中線や効果音などによる迫力も感じない。

この中で唯一、辛うじて読者側が感じ取れる箇所があるとしたら、朗読が可能なフキダシやモノローグ、ナレーションなどの台詞の部分だろう。しかしそれも、小説の朗読のようにはいかない。
漫画は、小説と違い、文字による情景描写が殆ど無い。
例えば小説で、『その病院は、この片田舎には不釣合いなほど巨大で、病院から本来感じるべきである、安心感や衛生的な雰囲気とは云い難く、何か不吉な事態を連想させる、異様な建造物に見えた。』という文章による描写がある。漫画では、それらの総ての情報を一つのコマで、『絵』として視覚的に描写する手法をとる。
だから、たとえ漫画の台詞のみを巧みに抽出し、それを朗読したとしても、それを聴かされた側には、一体何時、何処で、何が起きているのか、適確にイメージすることが出来ない。それでは、漫画という表現を、堪能したとは言い難い。
漫画というのは、あらためて非常に視覚的な表現なのだと気付かされる。

漫画の中の登場人物の、眼の描写や視線というのも、とても大切な情報と表現技法だ。
時には、眼のズームアップの描写一つで、そのキャラクターの心理や決意を想像させることが出来る。

眼というのは、漫画に拘る人達にとって、最も重要な器官といえる(次が『手』かな)。

なので、母から手術に関するメールが届いたとき、僕は、ひょっとしたら、当事者の母よりもうろたえていた。
何故か自分の眼がむず痒くなり、眼球が無くなる様な感覚に陥り、しきりに眼を思い切り瞑ったりした。
視力が悪いのにもかかわらず、永いことかけていない眼鏡を探したりした。

そういえば、この間、父と逢った時、父が緑内障だという事を聴かされ、落ち込んでいたのを思い出した。
発覚の原因は兄で、兄が会社の健康診断を受けたところ、緑内障の疑いがあると診断され、緑内障は遺伝的な要素もあるといわれているから、親にも診断を薦めて調べてみてはどうかという事で、その通り父も発覚したという経緯らしい。
ということは、僕にも緑内障の可能性があるのではないかと気付いた(緑内障についてはまた別の機会に)。

それからというもの、自分の眼が気になって仕方ない。

因みに、母の手術は、無事成功した。今度様子を見舞いに行こう。




僕はネームに詰まるとゲームセンターへ行く。

作画作業中は、殆ど息抜きも他の事もせずに、描き続ける。それは、浸けペンを描きなれてきた手の感触を、他の作業で失いたくないからである。
しかし、手よりも頭を使うネーム(漫画そのものの下書きのようなものです)という作業は、一度思考が煮詰まると厄介で、適度なクールダウンが必要になる。

いつものように、ゲームセンターの階段を降り、格闘ゲームにコインを入れる。

プレイするゲームは、いつも同じだ。
『STREET FIGHTER Ⅲ 3RD STRIKE』
ゲーム業界に『格闘ゲーム』というジャンルを打ち立てた『STREET FIGHTER』シリーズの続編にあたる。
稼動して10余年、僕はこのゲームだけをプレイし続けている。

漫画と違う、ゲームというシンプルな作業に没頭する事で、精神のリフレッシュを謀ろうという魂胆らしい。

しかし、格闘ゲームの真の面白みは、対人との対戦にある。
自分の向かいの、対となる同ゲームの筐体へ、何者かが座り、コインを入れ、ゲームの開始ボタンを押す。
その瞬間、僕のリフレッシュの時間は終わりを告げ、眼の前の対戦相手との勝負へ全神経が注がれる。
こうなると、当初の用途とは、全く異なってくる。気分転換どころの騒ぎではない。
気分は昂揚し、掻かなくてもよい汗が滲み、手には余計な力が入る。
そして、いつものように相手に負けて、熱くなり、今度は此方から挑戦をしかけ、負けるのが繰り返される。それは、所持金に危機が及ぶまで続く。
肉体も精神もへとへとな負け犬となり、いつものように、ゲームセンターを跡にする。

物凄くストレスが溜まるのだが、何故なのか、こんな瞬間が楽しくて仕方が無い。
そして、こんな生活が、漫画家になってから永く続いている。

学生時代は、よく学校をサボってゲームセンターへ行った(全く褒められた事では無いが)。
特に格闘ゲームが好きで、特別巧いわけではなく、少ない小遣いの殆どはゲームの筐体へと消えた。
学校の成績も下がり、果ては進学の道が閉ざされるほどのめり込んだ(それだけが原因ではないが)。
それでも、僕はゲームセンターへ通った。
煙草の煙と、敗北の悔しさと、勝利の喜び。自己への向上心と、他者との情報交換。
たった50円という1プレイに秘められた、小さな野心と矜持が、筐体の一つ一つから感じられるようで、僕もその、空気を彩る一人の闘士になったようだった。、たとえゲームに敗北しても、何故負けたのか、相手の動きを見て、自分のミスを修正し、また挑む。他人のプレイを観ているのも、参考になる技術は盗み、練習し、実戦で活用してみる。
何もかもが、楽しくて仕方が無かった。
友人とも何度も対戦した。外が真っ暗になるまでゲームセンターに居座った。

ゲームセンターは、紛れも無く、僕の青春の染の一つだった。

何故ネームに詰まると、ゲームセンターに足を運んでしまうのか、自分でもよくわからない。
あの頃よりゲームに費やす時間は明らかに減り、腕も格段に落ちている。
自宅にも、同じゲームを購入し持っている。自宅でもたまに独りで練習している。負けてばかりで、一つも上達しない。
それでも、これからも僕はゲームセンターへ行くだろう。それは、学校生活に馴染めなかった僕を精神的に成熟させてくれた、ゲームセンターという存在への御礼や敬意でもあり、時代の様々な変化に伴い、次々と消えていった青春の跡を、少しでも永く、出来れば絶やさずにおきたいという我儘な願望でもあり、単にゲームが好きな僕の想いでもある。

ひょっとしたら、ゲームセンターという青春へ還る事で、僕自身も、背負うものも無く、気負うことも無く、何も考えて無かったあの時代に還る事が出来ているのかもしれない。

多分,今週また僕はゲームセンターへ行く事になる。
今年で僕も31歳になり、『U-31』の主人公・河野敦彦と同じ歳になっている。
河野敦彦は、27歳の時から再び目指し始めた、念願の日本代表へ復帰して、そのストーリーに一先ずの幕をおろした。

僕は、『U-31』を描いていた当時、23歳だった。とてもじゃあないけれど、河野の心境には至ることは出来なかった。
『河野敦彦』は、当時原作者としてご一緒にお仕事をさせていただいた綱本将也氏・そして当時編集者として公私にわたり本当にお世話になった、N崎氏と、両名の精神や感情を併せ、それを僕のイメージする像と混ぜ合わせ、作品と共に練り上げていったキャラクターだった。
どちらかといえば、同作の登場人物の一人『戸澤敏行』(『瀧川』もだけれど)と同じ世代で、彼の言動や思考は、僕の当時の心境をく反映している(境遇や才能は全然及ばないけれど)。

要するに、人生や社会というものを舐めていた。

思うより若くして、当時目標としていた『週刊モーニング』での連載。
人生初めての、商業として発表した原稿が、そのまま掲載した第一話になった。

だが、いつの間にやら連載は終わり、いわゆる商業誌から姿を消した。
それでも、自分には才能があると過信していた。あの時の、あのデビューの感覚が、そう思わせていた。

自分だけが、その作品や自意識にしがみつき、気がつけば世界は、遥か先を進んでいた。
僕は完全に取り残されていた。

いつの間にか僕は、主人公・河野敦彦と同じ立場になっていた。

今、彼と同い歳になり、再び河野の人生を追う。単行本のページをめくる。
いつだって河野は、一生懸命に走っている。惨めな自分を認め、晒し、それでも走る。

ようやく、河野の気持ちがわかってきたような気がする。当時の綱本氏・N崎氏の、この作品に込められた想いが、理解できる気がする。
僕も、河野に負けず、走ろうと思う。河野に、よくやったと認めてもらえるまで、頑張ろうと思う。
今でも河野は、何処かで走り、フットボールを続けている。そう思える。
僕も、河野に負けず、ずっと漫画にしがみつき、描き続けたいと思う。

いつの日か、河野に胸を張って再び逢える日まで、そうしたら、また、あのストーリーの続きが描けそうな気がする。

その日がくるのを、楽しみに待っている。

2011年11月19日『サイバーブルー ~失われた子供たち~』単行本第二巻、発売いたしました。

僕が、この作品の作画を正式にお引き受けさせていただく事になったのは、2010年初夏の頃でした。

当時、まとまった仕事も無く、この先漫画家として生きてゆく事に、焦燥と限界などを感じていました。
2003年、『週刊モーニング』で連載していた『U-31』という作品以来、一度も連載の機会も無く、単発の仕事で食い繋ぐ毎日でした。
そんな折、かつて一度一緒にお仕事させていただいた、『週刊コミックバンチ』(2011年現在、終刊)の編集者さんから、連絡がありました。

『この度、新創刊の月刊誌を立ち上げる事になった。その雑誌で、『CYBERブルー』を描いてみないか』

初めは、何の事を言っているのか良くわかりませんでした。
『CYBERブルー』の名に、聞き覚えはありました。
『CYBERブルー』は漫画家、『原哲夫』先生がかつて連載していた作品です。
映画やアニメ、ゲームのリメイクやスピンオフのような漫画は、幾つか聴いた事があるけれど、漫画のリメイクの漫画というのは、未だ珍しいものでした。
この作品は、一度完結されていて、もし引き受けることになるとしたら、原作者にあたる原哲夫先生のファンは途轍もなく多い。
僕が手掛ける事で、前作のファンや、原哲夫先生の作品が好きな方へ、何か失礼な事になってしまったりはしないだろうか。
そんな不安もありましたが、僕の中にはもう一つの感情がありました。

僕は、原哲夫先生のファンでした。ほぼ総ての作品を愛読し、その物語のスケールやキャラクターの生き様、圧倒的な描写に憧れ、時にお手本にして、漫画家になりました。
僕にとって、原哲夫先生は、誌面を通して眺めるだけの、遥か遠くの存在でした。
漫画家になり、周りの人々に迷惑ばかりをかけて、辛うじて生活している自分には、未だ現役で、第一線で活躍するその存在は、僕の中で更に大きく、強く、どうやっても手の届かない程に輝いていました。

そんな原先生の作品に携わる事の出来る喜びと、自分の、漫画家としての生きる道筋の先に、細く僅かでも光が射したようで、僕の胸は躍っていました。

原先生の作品に関わらせていただくことで、今一度、漫画の事を勉強しよう。
僕を通して、新しいモノを提供することで、少しでも、読者の皆様の新しい愉しみと、原先生の力になろう。

僕は、『新サイバーブルー(仮)』の原作原稿を受け取りました。


それから瞬く間に時間は過ぎ、気がつけば『サイバーブルー ~失われた子供たち~』は連載して一年と少しが経ちました。
この作品を読んでくださり、愉しんでいただいている皆様。
厳しくも優しく、随処に本当に的確なアドバイスを下さる原哲夫先生。
不慣れで不適格な指示にも、クオリティの高い絵で応えてくれるスタッフの皆様。
この作品へ関わる人達に感謝の意と、これからも努力や精進を怠らず、より一層面白い漫画になるよう頑張る事が、皆様への恩返しになると思っています。

此れからも、宜しくお願いいたします。





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誕生日:
1980/04/28
職業:
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趣味:
格闘ゲーム(3rd strike)
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